「発明塾®」へようこそ!: 再び「設計」論~発明塾京都第144回開催報告

2013年8月31日土曜日

再び「設計」論~発明塾京都第144回開催報告

今回も、引き続き合宿時のアイデアを、個別に討議しました。その中で、「特許としてどう取るべきなのか」「それをどのような手順で考えるのか」について、討議/講義を行いました。

今回は「消耗品」が絡んできますので、「権利化」について、注意が必要です。サプライチェ-ン/バリューチェーン/利用のプロセスの、どの部分に注目して権利化するかを間違えると、単にアイデアを公開するだけの、無駄な作業になってしまいます。

発明をする際には、結局「適切に保護されない」ような無駄な発明をせずに済むように、予め権利化を想定しておく必要があります。

僕が「適切な発明を生み出すには、知財に関する詳細な知識が必須」と、発明塾で繰り返し言っている理由が、今回少し分かったのではないかな、と思います。


さて、少し話題は変わりますが、塾生の一人から「設計と発明の関係について」、ちょっとした情報共有が有りましたので、当り障りのない範囲で、紹介しておきたいと思います。

現在、宮崎駿監督の「風立ちぬ」が公開されていますが、その中で、戦時中の戦闘機の「設計」について、色々と取り上げられているそうです。

興味を持った塾生さんは、戦闘機設計に関する更に詳しい本、

・「零戦 その誕生と栄光の記録」堀越 二郎 著

を、読んでいるとのこと。この時点で、理系学生&塾生としては十分合格点のような気がしますが、気づいた点として、いくつかを挙げてくれました。僕なりの解釈と抜粋も含めると、以下の3点でした。

①まず全体の3面図から入り、それを分解していく形で設計が進むこと
②材料やネジの変更など、少しの/部分的な変更が、全体に大きな影響を及ぼすこと
③多くの場合、それらの「変更」は、トレードオフを伴い、そういう意味でも全体観が必要とされること

どれも、非常に重要な指摘だと思いました。と同時に、学生さんが「ものづくり」をどう捉えているかということに関する、僕の疑問点をいくつか解消してくれました。


①設計はまず「全体在りき」である。部分から始まることはありえない

設計者としてずっとやっていると、ある種「当たり前」のことなのですが、多くの「技術系」の学生が見せられる「工場で部品が組み立てられる」映像を元に「ものづくり」を捉えてしまうと、「部品を組み立てていくのがものづくりであり、部品の図を書くのが設計なのだ」と思われる可能性があるな、と気付きました。

Never.

正確には、「ある性能を実現するため、部分と全体をバランスよく見て、実際に作れるものとして、指示する」のが、設計だと思っています。部分の裏付けなく全体図を書く設計者はいませんが、決して部分から入るわけではなく、全体としてある「仕様」「性能」(発明的には「課題を解決する」)を満たすように、指示を出す。

つまり「設計図」とは「設計者が持つ”全体観”を具現化するための”指示書”」なのです(注1)。実際に僕は、川崎重工時代には、設計図に「製造法、材料」はもちろんですが、「検査方法」「製造時の不具合修正方法」なども、細かく指示をしていました。工作機械に使う「工具」を指定することも、しばしばです。同じものであっても、計測方法によって寸法は異なりますので、計測方法や条件も指示しないと、図面の数字は意味を持ちません。

さらに極端には、「製造時に必要な寸法」と「検査時に必要な寸法」は、全く異なります。たとえば、最終的に削って無くなってしまう部分の寸法を、わざと指示することが有ります。製造時には必要ですが、検査はできません。


また、金型製作時に必要な寸法の一部は、原理上、現物では測定出来なくなってしまいます。どの寸法が、どの工程で意味を持つか、まで知り尽くして、一枚の図面を仕上げていく。これが「指示書」たる「設計図面」です。一枚の図面には、何から初めてどう作る(削る順番なども)、という「ストーリー」が詰まっているのです。

製造方法も含め、部分を詳細に知らないと、全体を想像/創造することも出来ないが、かといって、部分からは「決して」始まらない。全体を分解するときの「落とし所」を知らないと、全体を決めることが出来ないが、落とし所から始めても、面白いものは出来ない。

この絶妙のバランスを、経験と知識(理論)を駆使して、成立させる。これが「設計」です。

「部分」は、必ず「全体」に従う。でも、「部分」が変わると、「全体」も変わる。一連のフィードバックプロセスが「設計」の本質です(注2)。

面白い仕事だと思いませんか?どうかな?・・・


②③については、以前取り上げましたし、結局①の裏返しでしかありません。「全体として満たすべき性能(発明的には「解決すべき課題」)を忘れず、しかし、部分は徹底的に最適化し、変える。


僕は、研究でも開発でもなく、この「設計」が、ものすごく好きです。会社では、いちいち説明するのが面倒なので「技術者」等と言ってしまいますが、「研究」「開発」「設計」・・スタンスが、まるで違います。同列に扱うのは、危険な気さえします。

設計において、基本的に「開発」要素は厳禁です。既に出来上がって、原理が解明されているか、解明されていなくても十分使いこなせている技術/要素を使って、行う作業が設計です。「性能」が達成されるように、世界中にある「ありとあらゆる”つかえる”技術」を、総動員する作業。それが「設計」です。

設計する度に開発していては「納期通りに」、モノを出すことは不可能です。

・原理確認=サイエンス=研究
・性能向上=開発
・定められた機能を発揮する1つのシステムとして、まとめ上げる=設計

てな感じでしょうか。まさに、発明塾で教えていることは、「設計」ですよね。僕は「発明は設計」だ、と感じてくれた塾生が出たことが、とても嬉しいです。

「全体を見て」「部分を徹底的に作りこみ」「全体として機能するようにする」

ことに喜びを感じる学生さんは、ぜひ「発明」をやりましょう。


ここまで来て「発明には知財の知識が必要」も、まさしく「設計」の理屈だなと思った塾生は、勘が鋭い。僕にとっては「どう保護できるかを知らずに発明をする」というのは、「製造法を知らずに図面を書く」のと同じぐらい、理不尽で無駄な作業に思えるのです。

これは僕が「設計者」だからだろうな、と「つくづく」思います。

ではでは。


※ 注1)補足すると、優秀な設計者は、全体観としてはある程度冒険しつつ、設計の中でその「マージン」を確認しつつ、大きな破綻がないように全体をまとめていく。つまり、「設計=確認」であり、「設計図=確認結果の提示」となっている。なので「積み上げ」ではなく、「常に仮説検証」である。設計という作業は、「仮説検証」という思考回路を教え/鍛えるのに、うってつけだと、今になって思う。「仮説思考を学びたければ、設計者になれ!」という気がします。

※ 注2)この部分に関する、関連記事は以下。
 塾長の部屋(40)~「設計」と「発明」が持つ「アート的」面白さ